2013年11月6日水曜日

小規模学校に子どもを通わせるある親の気持ち その5

小規模学校でやり玉にあがるのが運動会です。
全校児童6名の小学校では、50・80・100m走の競技はすべて一人で走ります。競走する相手は、自分。過去のベストタイムとの競走になります。広いトラック、をたった一人で走るわけですから、傍で見ていると寂しいことこの上ないことになります。
普通なら6人くらいが走って、1着から6着までの順位が決まる。1着を喜ぶ子、2着で悔しがる子、5着で居場所無さそうに肩を落とす子。何着になっても別に~という様子の子。この悲喜こもごもな様子(経験)がないとなにか寂しいというか、いずれ投げ込まれるであろう競争の海で大丈夫なのか、という心配がよぎってしまうのでしょうか...。

さてちなみに前回の運動会では、ヨーイドンで一人ずつ走り、長女はベストタイムに0.1秒届かず、長男はベストタイムを更新、という結果でした。
運動会が終わって、子供たちに、今日はどうだった?と感想を聞いてみました。長男は「一輪車に乗れるようになった!」で、長女のほうは「お弁当を食べるときに、村のおじいちゃんに『速く走れるようになったな、とほめられた』こと」と答えました。ベストタイムには届かなかったけれど、お弁当の時に横で食べていた近所のおじいさんは、去年より足が速くなったのを感じて褒めてくれたんですよね。

この言葉を聞いたときには「本当にこの学校でよかった」と心底思いました。
地域の中で暮し、そして自分もその人たちに見守られて育っているんだ、ということを子どもも実感できたと思います。

地域の教育力向上とか地域の絆づくりとか、地域の見守りリーダーづくりとか、散り散りバラバラになってしまっている地域コミュニティを再生させるべく、税金と労力を使っていろいろな試みが行われていますが、この過疎の山里ではそんな試みをする必要もなく当たり前に地域との絆をはぐくむことができると感じています。

人間、一人では生きていけません。協力し合うことはもちろんですが、自分が社会の中にいて、その一部として生きているんだ、という実感がとても大切です。働いていれば、社会的地位につければ、それでよい、というわけではないのです。働き盛りの人が、社会的地位にある人が自死することは珍しくありません。自死を選択する人の理由はいろいろあるでしょうが、社会の中で自分が生きているんだ、という実感がある人は、そう簡単には自死という選択はしないと思っています。

そうそう、10行くらい上に「当たり前」と書きましたが、住んでいれば当たり前に絆が育まれるか、といえばそうではないと思います。
親が地域とのかかわりを持ち、そのことを子供に伝え、その姿を見せる、これがなければ子どもが地域との絆を感じることは難しいと思っています。

ということで、広い運動場を一人で競走する姿を挙げて、「これでは可哀想だ」「こんなことでは競争社会を生きていけない」というご指摘には、私は同意できません。少なくとも私の子どもにとってはかけがえのない経験の場であると感じていますゆえ。

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この「小規模~」シリーズは、学校の統廃合の是非を訴えるものではありません。
小規模学校では何が起こっているのか、
小規模学校を抱える地域では何が起こっているか、
そこで学校に子どもを通わせている親の気持ち、
そして可能な限り子どもの気持ち、
などなど、をみなさんに知って頂きたいのです。

小規模学校の問題は、じっくり呼んで頂ければ小規模学校だけのことではない、という事がわかってもらえるのかなぁ・・・と思っています。

まだまだ続きますので、おつきあい頂ければ幸いです。

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